座標軸がしっかりしていた「三角大福中」の時代!

  中曽根康弘が天に旅立った。101歳で天寿を全うなら大往生だ。

 1982年の自民党の総裁選で勝利し、第71代内閣総理大臣に就任した。

 少数派閥を率いた彼が首相の座を射止めたのは田中角栄の応援があったからだ。

 当時、田中派は田中軍団と呼ばれ100人を超える所属議員を抱えた自民党の最大派閥だった。

 田中は金脈事件やロッキード事件の裁判を抱え、数を誇示することで存在感を示した。

 闇将軍と言われた角栄のさじ加減一つで後継首相が決まった。

 そんな闇将軍の支援で総理となった中曽根政権を、私は「田中曽根内閣」と呼んだ。これほどピッタリくる言葉はないと思ったからだ。

 意識的にあちこちで吹聴したところ、朝日ジャーナルが引用。たちまち新聞各社が政治面だけでなく、社会面でも「田中曽根内閣」を使うようになった。命名者としては「してやったり」である。実に痛快だった。

 中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げて、改憲に情熱を注ぎ、首相として戦後初めて靖国神社に公式参拝するなど生粋のタカ派だったので、私の体質に合わなかった。

 三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、そして中曽根康弘の「三角大福中」の中では、三木や大平に親近感を抱いた。

 ただ、行政改革については中曽根を高く評価している。巨額の赤字を抱えた「国鉄」をはじめ、「電電公社」、「専売公社」の民営化を実現した。中曽根が行革に成功したのは土光敏夫の協力を得たことである。

 経団連会長などを歴任した土光は清廉潔白な人柄を誰もが認める人物だった。「土光臨調」のおかげで行革を実現できた。

 もうひとつ、中曽根内閣を語る時、忘れてならないのは後藤田正晴の存在である。

 官房長官だった後藤田は、海上自衛隊の掃海艇を中東ペルシャ湾に派遣する問題が持ち上がった時、「閣議でサインしない」と猛然と反旗を翻し、中曽根に派遣を断念させた。

 専守防衛を国是とする日本が、戦渦に巻き込まれることを恐れたのである。いかなる理由があろうとも自衛隊を海外に出すべきでないと後藤田は文字通り体を張り、進退をかけて食い止めた。

 功罪いろいろあろうが、「三角大福中」をはじめ、後藤田ら当時の政治家は各々が自分なりの政治哲学を持ち、座標軸がしっかりしていた。日本の将来を見据えて腰が据わっていた。

 その場限りのウソやデタラメは言わなかった。「信なくば立たず」(三木武夫)というように、国民の信頼あってこその政治を自覚していた。

 それを思うにつけ、今の政治の軽さが目に付く。

 国民は信頼に足る「骨太」の本物の政治家を待ち望んでいる。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント