神戸市民と山口組との間にはこんな過去があった!

 山口組と言えば極道の代名詞だ。発祥の地が神戸である。今も閑静な住宅街に組の本部がある。だが地域住民とのいざこざは一度もない。はたから見ていると不思議なくらいだ。そこにはこんな背景があった。

 日本は戦争に負けた敗戦国。米英などは戦勝国だ。そして当時、中国人や朝鮮人を「第三国人」と呼んだ。

 そんな敗戦間もないころ、実際に神戸で起きた話である。これも戦争の現実である。

 同様の事件は大阪ミナミや、東京の新橋や渋谷、さらには九州、広島など全国で起きた。

 警察が手出しできず、復讐に燃えた彼らのなすがままで、日本の市街地は無法地帯となった。

 そんな中で特攻隊の生き残りなどが命懸けで市民を守った。戦後ヤクザの始まりである。

 戦争は終わった後にもこんな悲劇を残す。

 だから、絶対に戦争をしてはならない。

 犠牲者はいつも弱い人たちだ。

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(原文のまま)

 終戦当時、国内に朝鮮人、中国人は二百万人以上、居たといふ。彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。

 通りすがりの通行人の「目つきが気に食わない」といっては難くせをつけ、 無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。

 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。

 こういった不良分子は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。

 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。

 警官が駆けつけてきても手も足も出ない。

 「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」

 警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。

(略) 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。 途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

 「どないしたんや」 「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

 この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。 「ここにいるんやで。ええな」 私は少女をその場において一目散に走った。 少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の男たちだった。

 さらにこれにかわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。

 昭和二十一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害された。

 同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。

(中略)彼ら三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話交換室を占拠したのである。

 さらに彼らは水上警察署を急襲して留置されていた同胞全員を釈放し、水上署の全監房は彼らの手によって解放されるという事態にまで発展した。

(中略)警察は私に助っ人の依頼を申し入れてきたのである。」 (以上 山口組三代目 田岡一雄自伝より抜粋)

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